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自分を生きる

2019年8月8日のアメブロのブログ「常に今が一番いい。過去に後悔がない」という部分について、何人かの方から

そう思えることがすごいという旨のメッセージをいただいた。

 

どうしたらそんな風な考え方ができるの?と言ってくださった方もいる。

 

今のような思考になったのは26歳くらいからで、それまではネガティブで自信のない人間だった。

 

 

この間39になり、表面を取り繕って生きる必要は全くないし、そろそろ自分の人生を語ることで誰かのお役に立ってもいいんじゃないかなと思うので書いてみる。

 

同じ状況の人に、あなたは1人じゃない。と伝えたい。

私も題材が扱われたテレビを見て救われた。

 

そして今は状況が好転したので参考になればと思う。

 

 

実は幼少期から32〜33くらいまで母親からモラハラを受けていた。

 

母親に全く自覚はなく、むしろ一生懸命育てていると思っていただろう。

 

大抵の日は穏やかだが、いつ何が琴線に触れるかわからない。

 

自分の思った通りに私が動かなければ怒ったり、突然昔のことを引っ張り出して怒られることもある。

 

そしてサンドバッグのようにただ受け続けるだけなのだ。

 

母親の顔色を伺うことに全力をそそぎ、

びくびくしながらロボットのようにひたすら言うことをこなして生活していた。

 

言語聴覚士というリハビリの仕事をしていて、責任感の強い私にとって心と身体が休まる場所は結婚するまでどこにもなかった。

 

父親はどの程度わかっていたか?いずれにしても妻のコントロールはできていなかったと思うよ。

 

 

26歳のある日、書店で李家幽竹さんの『風水 収納&整理術』を立ち読みする。

 

本を読むと「捨て方」が書いてあり
眼からウロコが落ちた。
「こうやって捨てたらいいんだ」

 

それまで『決定』する機会をあまり与えられていなかったためか

捨てる捨てないの判断能力が備わっていなかった。

 

片付けが上手できれい好きな母親のようにはできず、

実家暮らしの部屋の中はモノがとにかく多かった。

 

本を買って家に帰るなり貪り読み。

取りつかれたように次々とモノを捨て出した。

 

衣類や雑貨はもちろんのこと。日記や写真、手紙、手帳、生徒手帳、教科書、小学校の交換日記

といった思い出の品もどんどん捨てた。

 

しがらみ、過去と決別したい。辛い過去を思い出せない状況を作ろう。

人生リセットだ。

 

過去はいくら考えても変わらないのだ。

記録になるようなモノを残さないようにすると見返していつまでもうじうじすることはない。

 

この作業はこれまでの膿を出すかのようだった。

 

8〜9割のモノを処分して何にもない部屋は空気がキレイで明るかった。

 

「終わった!」

 

スッキリした。

思考もスッキリしてポジティブなことを考えられるようになった。

 

人にも優しくなったのには自分でも驚いた。

 

ブログタイトルにもあるように、人の心に寄り添うことができるようになったのだ。

 

この時のことを私は

『人生に片を付けた』

と言っている。

 

『大お片付け』を通して判断能力が備わり、決断が早くなった。

 

ポジティブな思考になると仕事が楽しく質も向上した。

 

自分が楽しんでいると、向上心のある人が寄ってきて。どんどん楽しくなった。

 

この時点では母親との関係に特に変化はなかった。

 

しかし過去は振り返らず、今と前だけを見るようになったので劇的に心は軽くなった。

 

 

最近読んだ堀江貴文さんの本にこんなようなことが書いてあった。

『誰かを満足させるために生きているのは、他人の人生を生きていることになる』

『自分の時間は自分のもの』

 

私は私の人生をしっかり生きてあげなくてはならないのだ。

 

他に代わりはいない。

 

そう理解するのは10年近く先のことになるが

 

この時私は確実に自分を生き始めた。

 

26歳で『人生に片をつけて』から

仕事はうまくいき、色々な役割をいただいたり、沢山の仲間ができた。

専門学校の教員の話までいただいた。

結婚1年半にして夫が

「これからは自分のやりたいことをやったらいいよ。」と

半年だったが単身赴任をさせてくれた。

これまでできなかったことはできるようになったものの。

母親との関係は変化していないので、ただやることが増えた状態だった。

そしてその全てをやってのけるのが美学だと思っていた。

仕事と母親の対応、妻、プライベートの全てを完璧にやり遂げようとした。

そうすると圧倒的に時間と体力が足りない。

一度母親に聞いたことがあった。

「どうしたら満足してくれるのかわからない。」

答えは絶望的だった。

「満足することなんて一生ないよ。」

なるほど。終わってる。

つまり、いくら言うことに従って頑張っても「これでいいです。完了しました。ありがとう。」という日は来ない。

来るとしたらどちらかの人生が幕を閉じた時だ。

自分が認められることもない。

これは、関係性を変えなければ私は人生を継続できないかもしれない。

そうはっきりとわかった。

そしてうつ病、過呼吸発作、幻聴(電話の鳴る音)が悪化した。

親との連絡を一切絶ち、その時勤めていた病院は退職した。

アルコール依存傾向になってしまった。

モヒートとスミノフをあんなに飲んだのは

後にも先にもあの時だけだ。

自分がいなくても世の中は回っていく。

夫には申し訳なかったが

生きる意味がわからなくなっていた。

そんな状態でも『片付け』だけはやっていた。

時間があるので今までより更に生活感が無くなった。

様子を見に来た友人があまりのモノの無さに驚き訊ねられ。

「片付けをすると心も整うの。」

と話すと、友人たちに頼まれるようになった。現在の訪問アドバイスの前身だ。

悩みごとを聞いて、一緒に泣いたり寄り添ったり。

これは手放そうかどうしようかと一緒に考えたり、収納方法をコーディネートするのはとにかく楽しくて仕方がなかった。

全ての時間を友人たちの家の片付けに費やした。

するとアルコール依存傾向は無くなり、うつ病は最低限の家事ができるようにまで回復した。

片付け終わった部屋で「片付けて良かったねぇ」とくつろいで話していると

一度は失った私の存在意義がそこにあった。

『これからの人生は片付けを通してこうやって人に寄り添っていきたい。』と強く思うようになった。

それから5年経った。

うつ病はずいぶん回復していた。

私は整理収納業を開業するにあたり、何か資格があった方が箔がつくだろうと整理収納アドバイザー1級を取った。

開業してから度々新聞に載ることもあったが親から連絡が来ることもすることも特に無かった。

『好き』の反対は『嫌い』ではなく『無関心』と言うが、そういう状態なのか。気を使って接触しないようにしているのか。分からないことが最も怖かった。

いつも頭の片隅に

『家族』をうまくやれなかった。という劣等感があった。

加えて不妊治療をしても授からず、うつ症状が出ていた。

誰かに言われた。

「神の計らいだからね。」

こんな私には新しい家族を得ることすら許されないのか。

親と関わらなければ体調は良く、笑顔で過ごせる。

しかしこれでいいのだろうか?

関わればまたうつ病と苦しい過呼吸発作が起きてしまう。

私の人生なんだから、元気で楽しく過ごした方がいいんじゃないか?

もしかするともう連絡を取ることは難しいかもしれない。と覚悟していた。

転機が訪れたのは一昨年の妊娠だった。

結婚9年目。不妊治療4年。結果的には自然に38で授かった。

妊娠4ヶ月のある日。

父親から電話がきた。

いつもは出ないのだが、その時は恐る恐るでた。

「おじいちゃんが亡くなったよ。」

「そうなんだ。私、妊娠したよ。」

伝えることはできた。

それから少し話をした。

「円里が新聞に載ったのはみんなで見てるよ。それから、俺はネットのやつは毎回見てるし。」

父親はこのブログの読者だった。

「ありがとう。」

無関心ではなかったのだ。素直に嬉しかった。

それから全く連絡なく、私は去年5/31に出産した。

予定帝王切開だったのに、前日に陣痛が来てしまった。

陣痛が来ているにもかかわらず

「今日のブログはどうしよう?『陣痛なう』ぐらいは書けるんじゃない?」

などと病院のベッドで書こうとしていた。

(結局オペ後 簡単な出産報告を書いた。)

父親はブログを読んでいるらしいので、これで分かるだろうと思った。

産後半年経った頃。

赤子を寝かしつけながらテレビを見ているとモラハラの母娘のドキュメンタリをやっていた。

女の子もうつ病になってしまい辛い日々が続いたが、今は実家の近くに一人暮らしをし、適切な距離をとって会っているとのこと。

そして同じ状況の人のために相談の活動をしていると言うのだ。

ー一緒だ。絶縁しなくてもこの女の子は上手に接する方法を見つけたんだ。

そっか。距離を保てばいいんだ。

支配下から自分の力で距離を保つなんて難しいことだけど、何とかできるものなんだ。

私にもできるのかな?

また逆戻りになったらどうしよう?

せっかく自分の人生を生きられているのに?

夫にも相談せず何日も1人でもんもんと考えていた。

ある晴れた日の昼間。

赤子を抱きかかえて5年間足を踏み入れることのなかった実家のインターホンを押した。

一体どんな顔で何を話していいかもわからないというのに。

インターホンに出たのは母親だった。

「円里ちゃんだよ。」

なぜ自分にちゃん付けしたかわからないけど、ポップなノリで行かないと挫けそうだった。

玄関に94の祖母と2人で出てきた。

「ほれ。孫だよ。」赤子を抱かせた。

「わー。可愛い!」

母親は想像以上に老いていた。

父親から聞いていたけど、難病を患っており、会話はあまり混みいった内容は難しそうだった。

とは言え5年間会っていなかったと思えないほどあっけらかんとした再会だった。

しかし、次の瞬間私は泣いてしまった。

「5年間、連絡しなくてごめんね。」

母親も泣いていた。

「いいよ。もう来ないかと思ってたから良かった。」

んー?

私が謝って母親が許すという構図。

全く変化ない。私は悪くないのに。

こんなんでいいのか?

本当は今まで言わなかったことを全部言うおと思っていた。

母親との関係性に"片を付けた"ら私の人生の片付けは完了する。

人格を否定され、どれ程までに歯を食いしばって耐えてきたか。

あれだけ酷かったアレルギー性皮膚炎はストレスが原因だったこと。

中学生の時、足をカッターで傷つけていたこと。リストカットの様に生きるためにしていたと思う。

いつも心休まる居場所はなかった。

とりとめなく湧き出てくる。

しかし、すでに言ってケンカをしたりわかる状況では無くなっていた。

のん気に赤子をあやしている。

敗北感すら感じた。

やられた方は忘れられないけれど、やった方は案外スッキリサッパリ忘れている。

そもそも悪いと思ってない。

もういい。

私が適切に距離を保っていけばいいのだ。

母乳外来の上出先生がずっと前にこんなことを言ってくれた。

「産んでくれただけ良かった。ありがとさんって思いなさい。」と。

父親は仕事でいなかったので、その日は会わずに帰宅した。

帰宅して夫に話したら

「えー?行ってきたの?そぉか。よく行ったねぇ。それは頑張ったねぇ。」

と言われた。

今は居場所がある。

自分が希望した家族がある。

現在は誕生日やお盆などの行事に父親から連絡があり、何か買ってもらったり少し顔を見せたりという程度にとどまっている。

その他『家族アルバム みてね』というスマホアプリを利用してもらっている。

親だけが写真や動画を投稿でき、招待された家族が閲覧できるアプリだ。

いつでも好きな時に最新の動画や写真を見られるのでとても良い。

投稿するとスマホ内の写真は削除しても良いことになるので写真整理にもなる。

私自身は随分変化して

「孫におもちゃ買ってやってよ」

「今まで何もしてないんだからお年玉多くたっていいしょ」

「果物、お父さんのツケで買うわ。」など

今まで親におねだりや甘えたことはなかったのにそんなことも言えるようになった。

こうやって適切な距離を保っている。

今まで、反逆心で生きていた。

親というもののビジョンが持てない私が母親になった。

そして少しずつ考え方が変化してきた。

この子を通して自分が育てられている。

母親も私を宿した時、あれほどまで不安で、しかしあたたかな、希望にあふれた気持ちで生活していたのだろうか?

何もできない、何もわからない赤子の私を、こんな風にイライラしたり、カワイイと思いながら育てていたのだろうか?

親も1人の人間だ。完璧な人間がいないように私の親も悩み失敗を繰り返しながら私を育てたのだ。

今なら親の気持ちがわかる。

そんなことを考えていた。

愛情が深すぎていつしか偏りが生じて、言葉の暴力になってしまったのかもしれない。

ニュースで育児を投げ出した話などを見かけると、大人まで育ててくれたことに感謝している。

起こってしまった過去は変わらない。

今が良いからと全て帳消しにもならない。

でも片は付いた。

私は今、全てを受け入れて、スルスルと後ろに受け流して、

自分の時間を自分のために使い

自分を生きている。

そして5年という空白の期間を取り戻している最中だ。

ABOUT ME
柴田 円里
柴田 円里
整理収納アドバイザー 自宅や企業に訪問し、整理収納法をアドバイスする。講座開催。クリーニングデイ士幌(フリマ)開催。「片付け」という行為はモノを整理収納してスッキリするだけでない。そのモノをなぜ持っているのか、持っていたいのか。モノと対話することにより、自分を見つめ直すきっかけとなり、心も整っていく。
アメトピ(Amebaトピックス)掲載記事

 

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心に寄り添うお片付け♡

整理収納アドバイザー柴田円里でした。